歴史があるんだ。
いわて東日本大震災 検証と提言
岩手日報企画 「再興への道」より
明治、昭和の二度の大津波などから復興を遂げてきた宮古市の田老地区。昭和の大津波後は「100年の大計」として「万里の長城」と呼ばれる巨大防潮堤を建設した。だが、平成の大津波はその防潮堤を越えて町を破壊。200人近い尊い命を奪った。そして今、「津波防災のまち」を掲げる田老の住民は次の100年を見据えた検討を始めている。
巨大防潮堤は村制時代の1934(昭和9)年着工。国は高台移転を指示したが、村には約500戸に上る住家の移転地がなかった。また、海産物を浜から背負って運ぶ時代、漁業経営を考慮し村は防潮堤建設と避難路を整備した市街地計画を決めた。
巨額工事費を理由に反対する国に対し村は単独事業を決断。その後、県事業に移行し58年に完成。79年までに二つの防潮堤が加わり総延長2433メートルのX型となった。ソフト対策も進め2003年、津波防災のまちを宣言した。
北海道奥尻町の元町長鴈原(がんばら)徹さん(68)は「多くの犠牲者はあったが被害を抑えた。100年先を見越す先見の明があった」と評価する。
その地元・田老住民による「復興まちづくり計画」の検討会がスタートした。メンバー約20人が3班に分かれ、まちづくりの方針や土地利用について議論。「安心なまち」「若者の集うまち」と未来の輪郭がみえてきた。
自営業和井田学さん(55)は「津波と縁が切れないのは、ここに生まれた宿命だ。防潮堤には限界があり波にあらがわず津波の来ない場所に住むべき。土地の買い上げなど国の支援が必要」と住宅の高台移転を主張。
市消防団本部付分団長の田中和七さん(57)は「人口流出が一番心配だ。若者が夢と仕事を持てることが大切で、そのためにも若い人の意見を反映させなくてはならない」と人口維持・増加を図る「なりわい」重視のまちづくりを思い描く。
田老地区の人口は40(昭和15)年に9260人あったが、震災前の今年3月上旬には4434人に減少。今月1日現在は3951人で流出の傾向もみられる。
田老地区民は、新たな「100年の大計」をどう描くのか。人口減少は津波前からの地域課題。津波防災を再構築しても、数十年後、住民がいなくなれば防潮堤も街も「遺跡」と化してしまう。
復興計画策定は、地域の構造的問題の解決や将来を見越した視点が必要だ。問題を置き去りにすれば元に戻るだけの復旧に終わり、復興とは言えない。
「真の復興」の主人公は住民。「どのようなまちにしたいか」の主体的議論が求められる。一方で、国は資金的、人的支援で市町村の復興を強力に後押しするべきだ。「これだけの大災害は国難。国が前面に立ち復興を進めるべきだ」とする鴈原さんの訴えは重い。
宮古市田老地区 1896(明治29)年と1933(昭和8)年の二度の大津波など数度の津波で壊滅。犠牲者は「明治」が1859人、「昭和」が911人。「津波田老」の異名を持つが被災のたびに復興。60年のチリ地震津波では、海抜10メートルの防潮堤が津波を防ぎ建物、人的被害なし。ハード、ソフト両面で対策を講じ、津波防災のモデルとして国内外から注目される。2005年に宮古市と合併した。
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深い。高台移転にたいし、いわて東日本大震災 検証と提言
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